
ほんのり赤く染まって
お昼を近くのホテルのレストランで親しい友人と取った後、佐々木夫人は舞踊の師匠宅に向かい、みっちり2時間、稽古をつけてもらった。
同門の発表会が一週間後に控えており、だんだんと稽古にも緊張感が高まってきている。
稽古が終わった後、夫人は移動の車から娘の美奈代に電話をかけた。
「もしもし、サキちゃん?あなた、今日は夕ご飯は?あ、そう、いらないのね?うん、それならよかった。
じゃ、帰りは9時くらいになるかしら?はい、わかりました。
え、私?私はこれからまた個展の会場に戻るわ。
7時過ぎくらいにはお家にいると思う。
じゃあね。」
しかし、夫人の車は、個展の会場に戻ることはなく、逆の方向にどんどん走っていった。
20分くらい走ったろうか、寺院の山門のような門をくぐり、大きな和風造りの家の前に止まった。
玄関の上に大きな額が掲げられ、そこには「普門亭」と書かれてある。
夫人が三和土で草履を脱いで上がると、すぐに和装の若い女性が出てきた。
夫人はにっこり彼女に笑いかけて、
「ご苦労様、今日子さん。」
と声をかけた。
しかし、彼女は一言も口をきかず一礼だけ返し、夫人の草履をひょいと拾い上げると、夫人の後に続いた。
戸口に出てきたのは、徳井聡志だった。
青いシャツ、白いネクタイにダークブルーのスーツを着て、片膝を付いて夫人に一礼した。
「トクちゃん、来てたのね、ありがとう。」
夫人は破顔一笑した。
そして、廊下づたいに歩き、入ったのは角の部屋である。
まもなく、その部屋に燗酒の用意をして聡志が入ってきた。
「トクちゃん、ありがと。
まずググッとやりましょ。」
夫人は聡志に注がれた杯をグイッと飲み干し、聡志に返した。
杯を受けた聡志も同じようにして、夫人に返す。
「トクちゃん、ここは初めて?」と夫人が尋ねると、聡志はうなずいた。
「そう。
ここは、うちの企業グループの接待所兼保養所なのね。
この時間は私たちとごく少ない信頼できる人しかここにいないし、門も閉じちゃったから、もう誰もここに入れやしないわ。
もちろん、誰も出られないし。」
夫人は最後の言葉を意味ありげに笑いかけながら言った。
聡志は表情を動かさずに夫人に酒を注ぐ。
夫人は、その杯を呷って、
「見てご覧なさい。
お庭の綺麗なこと、私はここのお庭が大好き。
四季それぞれの趣があるの。」
と言った。
確かにここの庭はよく手入れされており、見事なものだ。
これほどの施設を維持するのにも、莫大な金がかかっているのだろう、と聡志は思った。
「トクちゃん」呼ばれて振り返ると、夫人の目元はほんのり赤く染まっていた。
その目はギラギラと何かを求める目になっている。