
帰りの電車
そのマンションの前を通りかかったのは、仕事先へ向かう途中だった。
通常、勤務している教室とは別の場所に新しい教室がOPENしたばかりで、しばらくそちらを任されたのだ。
山手線の内側にある本教室と違って、駅から少し歩くと住宅街が広がっている。
こんなところまでフラワーアレンジメントを習いにくる生徒が、いったい何人いるのだろう。
経営にはいっさい口を挟めない私が心配するほどのこともなく、その新教室はすぐに生徒がいっぱいになった。
ここの生徒は、ほとんどが主婦だ。
本教室と比べると、月謝が安く、その分、花材が見劣りしたが、卒業後の資格は本教室と同じというのがひとつの売りでもあった。
本格的に勉強をしていずれは転職を考えている若い女性が多い本教室と違って、ここの生徒はカルチャースクール感覚で通っている人が多い。
だから、講師の私も、本教室での教え方と、変えなければならず、少なからずそのことでは苦労した。
楽しいおしゃべり、家に飾って楽しめる花材、講座終了後のお茶の時間。
子供の話、夫の両親の話、近所の変わった人々の話。
今までに通ったことのある習い事について、芸能人の話題などなど、フラワーアレンジメントとは無関係の話題がほとんどだ。
楽しく過ごして、ストレスを発散させればそれでいいのだ。
生徒は満足して月謝を払い続ける。
講師の私の成績は上がる。
仕事とは、そういうものなのだろうか。
純粋な気持ちで、花と向き合う時間を少しでも過ごしてもらいたい。
その気持ちだけは、持ちつづけようと、密かに心に決めて、毎日の授業を続けていた。
そこが、痴漢男がポケットに残していった名刺のマンションだということに、すぐに気づかなかったのは不思議なことじゃない。
痴漢のことも、名刺のことも、まったく忘れ去っていたのだ。
一ヶ月も、その駅に通ってから、そのことに気づいたのは、昼食後に何気なくバックの中身を整理していて名刺をみつけたから。
帰りに、駅前のマンション前を通り過ぎるときに確かめると、たしかにこのマンションだった。
手のひらに乗せた名刺は薄い紙で、自宅のパソコンで印刷したようにチャチだ。
ろくでもない会社に違いない。
関わりあわないようにしよう。
そうして、私は名刺をバッグに戻して駅に向かい、電車に乗って帰宅した。
新しい教室の授業時間は昼間だ。
私が帰りの電車に乗るのも、夕方の通勤ラッシュが始まるより三十分ほど前。
本教室に寄ってから帰宅するので、帰りはもっと遅くなるけど、以前のように遅くなることはない。
外の明るいうちに夕飯の買い物をして家に帰り着き、夫とふたり分の食事を作る。
最近では、結婚してから初めて主婦らしい夕飯を用意することが、私の趣味のひとつになった。
「あの、どこかで、お会いしませんでしたか?」
聞いたような月並みなセリフが自分に向けられたものだと気づくまでに少々時間がかかった。