
マンションの二階
誰かに話そうかと思った。
乗り換えのためのホームに立っているときに、独身時代からの親しい友人に携帯からメールをしようと思った。
私、今日さ、痴漢に遭ったのよ。
ずいぶん、久しぶりだった。
今日子は?
最近、痴漢になんて遭ったことある?
帰宅してから、夫とふたりで遅い晩ご飯を食べているときに、話題にしようとも思った。
この歳になっても、まだ魅力があるのかしらね。
私のヒップ……。
あなた、昔は好きだって言ってたわよねえ。
他の男に、妻のヒップを触られた夫の気持ちってどんなの?
ねえ、教えてよ。
だけど私は、どちらもしなかった。
今日子にもメールを打たず、夫との食事時の話題にもしなかった。
そして、そんなことがあったなんてすっかり忘れてしまった頃。
ジャケットをクリーニングに出そうとしてポケットを探っていて、みつけたのだ。
一枚の名刺を……。
新宿から西に十数分ほど電車に乗ったところの駅近くの住所が書かれている。
マンションの二階に、その会社、あるいは事務があるらしい。
だけど、この名刺は誰のものなんだろう。
こんな名刺を受け取った覚えもなければ、花村良平なる人物に会った記憶もなかった。
このジャケットを最後に着て出かけたのは、いつだったっけ?
半日ほど、つらつらと考えて、ようやく私はそれに思い至った。
痴漢……。
そうだわ、このジャケットを着ていたときに電車の中で痴漢に遭ったんだわ。
それじゃあ、この名刺は、痴漢が私のポケットに入れたの?
いくらなんでも、そんなマヌケな痴漢がいるわけない。