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来月にヨーロッパ旅行

その頃、「トクちゃん」と呼ばれていた男、徳井聡志はマンションの一室で、調合した香辛料をカプセルに詰めていた。

 

部屋の片隅に置かれた本棚には、経営管理や組織論など、経営学関係の文献が洋書和書を問わずぎっしりと並んでいる。

 

机の上にはパソコンが2台置かれていて、一見して研究者の部屋らしい部屋だ。

 

ただし、聡志のやっていることは錬金術師のようで、周囲の雰囲気にはそぐわなかった。

 

ステレオからはメンデルスゾーンの無言歌集が流れている。

 

10個ほどのカプセルができると、聡志はそれを茶色の小瓶に詰めてふたをした。

 

午後10時過ぎ、机の上で電話がウィンウィンと震えた。

 

社長の美詠子からだった。

 

「佐々木さんからオファーよ。

 

木曜日午後2時半、場所は『普門亭』というところ。

 

初めての場所なんで、ファックスをもらったわ。

 

今からそちらに転送するから、よろしくね。」

 

「はい。」

 

「おクスリ、できた?」

 

「はい。」

 

「時間、間違えないようにね。」

 

「はい。」

 

それで電話は切れた。

 

聡志は電話を机に投げ出し、ベッドの上に大の字になった。

 

まもなくピーと小さな音がしてファックスが作動する気配がした。

 

次の木曜日はさわやかに晴れ渡ったいい日であった。

 

午前11時頃、表通りの一角に人だかりができていた。

 

「まあまあ、恵津子さん、このたびの個展、本当におめでとうございます。」

 

「こちらこそ、マサちゃん、トシちゃん、わざわざ遠いところをありがとね。

 

なんのお構いもできないけれど、じっくり見ていっていただけると、うれしいわぁ。」

 

「佐々木さん」

 

「はい、・・・まあっ、お久しぶりぃ。

 

市村さん、お元気でしたぁ?よく来てくれたわね。

 

こちらは?」

 

「うふふ、うちの嫁なんです。」

 

「ええっ、そうすると、あのトモキ君の?あら、まあ、もうそんなお年頃だったのね。

 

私の知っているトモキ君は海水パンツはいてそこら辺を走り回っていた頃しか知らないけれど、あの頃は、よくうちのサキにくっついて遊んでいたもんねぇ。

 

で、いつご結婚されたの?去年の秋?あら、まあ、おめでとうございます。

 

で、今日は?」

 

「ええ、ちょっとね、この人と来月にヨーロッパ旅行を計画しておりましてね、今日はそのお買い物ついで。」

 

「あら、嫁姑の仲がおよろしくって、うらやましいことね。

 

うちのサキも市村さんのようなお母様のおられるところへ嫁がせたいものですこと。

 

ゆっくりご覧いただいてくださいね。」

 

入口に「佐々木恵津子絵画陶芸展」と書かれた画廊の中で、佐々木夫人はさっきからひっきりなしに訪れる友人知人の応対に追われていた。