
他人を観察
テーブルに置かれた封筒に、その名前が書かれているのを見て、慌てて立ち去ってしまったんだっけ。
顔をよく見なかった。
まったく思い出せない。
後藤良平、彼は、いったいどんな顔をしているんだろう。
私がひとつだけ覚えている彼の特徴は、手だった。
水色の封筒の横に置かれた彼の手は、ずんぐりした印象の体格とは別人のもののように、指が長くて繊細な印象を私に残していた。
あの手が、電車の中で私のヒップを撫で回した手なのだろうか。
いやらしい感じがまったくしない、マッサージを受けているような気持ちのいい触り方をした、あの手なのだろうか。
それとも、やはり、彼と痴漢とは別人?
好奇心に負けて、しばらく立ち寄るのを避けていたカフェに足を踏み入れた。
昼食時をだいぶ過ぎた時間だから、店内は空いていた。
今日は珍しく午後の授業がないので、私はこのまま帰るつもりで教室を閉めて出てきた。
昼食は別の店で済ませていたので、コーヒーを持って奥の席に着く。
店内が見渡せる席に座った私は、ゆっくりコーヒーを飲みながら後藤良平の姿を探した。
たいして広くもない店内にまばらな客では、ひとめ見ただけで、彼がいないことはわかっている。
それでも、ひとりひとりを確かめ終わると、今度は入り口に視線を移して店に入ってくる人物を眺めた。
こんなふうに他人を観察したのは初めてだけど、面白い。
その間に、数人の客が出て行って、入ってきたけれど、後藤良平らしい人物はいなかった。
私は、もう一度、彼に会って、どうするつもりだったんだろう。
ただ、どんな顔をしているか確かめたかっただけ。
本当にそれだけ?
『数ヶ月前、電車の中で私のヒップを撫で回しませんでしたか?』
訪ねて行って、彼にそう言えばいい。
『そのとき、ポケットに名刺を入れたでしょう?』
そんな馬鹿馬鹿しいことが私にできるわけがなかった。
翌日から、昼食を必ずこのカフェで摂ることにして、後藤良平と再び、いいえ、三度、偶然出会うことを期待した。