
残された私
フラワーアレンジメント教室の仕事が終わり、駅に向かって歩いている。
駅に近づくと必ず前を通るマンション。
あの名刺に印刷された住所はたしかにここだった。
電車の中で痴漢に遭ったのは、もう三ヵ月も前のこと。
そのときの痴漢が私のポケットに残していった名刺を今もハンドバッグに入れている。
後藤良平。
本当にこの人が、あのときの痴漢なのか確かめてみたい。
私は、自分の気持ちを抑えることができずに、とうとう、ここにきてしまった。
会ってなにを言ったらいいのかわからないまま、マンションのその部屋の前に立って、インターホンを押す。
来意も名前も問われることなく、すぐにドアが開いた。
ドアの内側に立っていたのは後藤良平ではなく、二十歳くらいの若い男だった。
「西脇と申しますが、後藤さんはいらっしゃいますか」
ほんの少し躊躇しただけで私は本名を名乗った。
「社長は、もうすぐ戻る予定です。
お待ちになりますか?」
「はい、待たせてください」
ファミリー向けの3LDKといったマンションだったが、室内は住居というよりは、あきらかに事務所だった。
ソファに掛けた私の前にコーヒーのカップを置くと、その若い男は「仕事があるので失礼します」言葉少なくそう告げて奥のドアの中に消えた。
残された私は、カップのコーヒーとともに冷えてくる自分の気持ちを、もてあましながらそこに座りつづけた。
それほど長い時間を待つ必要はなかった。
彼……後藤良平は、私のコーヒーが冷めきる前に帰ってきた。
「あなたは、たしか……」
彼が思い出しているのは、一度、近くのカフェで相席になったときのことだろう。
「西脇妙子です。お話したいことがあります。後藤良平さん」